綱渡り
今日も早めに始まった稽古は、何故か上手く進まない。空気が苛立っている。進んでは突っかかるの繰り返しだ。
問題はどこにあるのだろう。舞台上のチームが特定の事に関する駄目出しをされた直後に、次のチームも同じ事を繰り返し、同じ事を注意される。演出家の森田も不安そうだ。昨日の「全員を出す」宣言ははたして間違っていたのだろうか。
いや、そんな事はない。昨日はあんなに引っ込み思案だった人も、今日は堂々と舞台に出ている。「全員を出す」宣言をしなければ、あの場からここまでも辿り着けなかったと思われる。
とはいえ、今の状況はやはりその「全員を出す」宣言から生まれていると思われる。「出る」という確信とプレッシャーがあれば、目の前に広げられる他者の稽古よりも、自分の事が頭の中で優先される。だからこそ順番が廻って来ても同じ所に引っ掛かってしまうように思える。
気付くと森田の苛々が頂点に達し、「カット」という言葉も「キャット」に変わり、言葉を強調して無意識に椅子を叩いていた手も腫れ上がっている。こんな状況では熱心な言葉も単なる癇癪にしか聞こえないだろう。少し長目の休憩を取る必要がある。
森田がゆっくりと楽屋へ移動すると、今までになかった事が起きる。ずうっと観察に徹していたイッセーが静かに立上ってマイクをとり、落ち着いた様子で稽古を続ける。言葉の内容は森田とまったく一緒でも、ものの言い方が柔らかい分全般的に受け入れやすいようだ。さらに、役者特有の表現力を活かし、台詞や動きの指導までしてくれている。さすが長年のチームだ。始めて見る演出家イッセーは、今までみたイッセーキャラクターの中でも一番格好良い。
一時間ぐらいすると、森田が客席へ戻って来る。楽屋のモニターに舞台の様子が写るので、稽古の進み具合を安心して見ていたらしく、御機嫌だ。もう少しで通し稽古に入り、それが終わるともう開場の時間だ。
稽古を終えた参加者は開演時間まで楽屋ですごす。中には自主稽古を続ける者もいるが、さすがに疲れきって二階席のの裏ロビーで行き倒れのように寝ている者もいる。稽古が終わった今、バトンを握っているのは演者達だ。今までとは違う進め方の成果はまだ実証されていない。皆はこのプレッシャーに絶えきれるのだろうか。
客席に入り、舞台を見ると緞帳が降りている。イッセーの舞台同様、公演前のベルは鳴らさない。開場の規定で流さなければいけない「会場からのメッセージ」も、イッセー本人が読み録音したものに変えている。その自然な口調が聞こえると、二階席のお客さんが身を乗り出すようにして下を見回す。本人が一階席の方で喋っているように聞こえたのだろうか。
開演時間になると、ベーシストの岡田さんが参加者を徴兵して作った音楽隊が舞台袖に現れ、演奏を始める。元気の良い曲が終わると、舞台も客席も突然暗闇に包まれ、聞こえるのは近くにいる人の呼吸だけだ。しかし数秒後に明りが点くと、その呼吸も止まる。
目の前の舞台に見えるのは倒れている女性、泣きじゃくる少女、呆然と立つイッセー、そしてその背後にざわめくやじ馬たちだ。何が起きたのかは誰もわからないようだ。群衆がイッセーを怪しんでいるらしい。携帯電話で写真を撮る者もいる。一歩でも動こうとすると、悲鳴があがる。第一発見者イッセーは身動きが取れない。
暗転。女性と少女が救急車で運ばれたらしい。残るはやじ馬達と余所者イッセーだけだ。疑いは晴れていないようだ。みの潔白を主張すればするほど疑われる。
暗転。やじ馬達に何故か土下座して謝るイッセー。それを見た群衆が解散する。最後に残った子供が靴を脱ぎ、後ろから余所者イッセーの頭を殴ってから走り去る。
舞台も客席も最初の幕開けから緊張に包まれている。二階席の下手側に座った私も、もっと全体が見える位置に移動しようと思いながらも、観客の集中の妨げになると見て一歩も動けない。参加者達の作品が次から次へと披露されるが、この空気の中では写真を撮るのさえも躊躇する。両手が硬直している。
両方にサソリを乗せながら峡谷の上を綱渡りしている光景を見ているようだ。言葉も演技も危なっかしい。しかし、バランスを失いそうになりながらも、一人一人が渡っていく。声もしっかりと聞こえ、演技も明りが消されるまで続く。バランスを失いながらも谷底に落ちる者はいない。
開演から一時間経っただろうと思い、はたしてこの緊張感にはあとどのぐらい耐えられるだろうと考えた瞬間、最後から二つ目の作品が始まった。「え、まずい。まだ一時間も経ってないのに、もう終わりか」と、慌てて時計を見ると、その針は20時30分を指していた。あっという間の一時間半。幕がとじ、カーテンコールの後楽屋へ戻る時、頭がまだ混乱していた。
そこへ来たのは満面のほほ笑みを浮かべた森田だ。
「劇的だ。こんなに劇的な芝居を見たのは久しぶりだ。どうだ、よかったでしょう。」
確かに劇的だ。時間が止まったようにすら感じる程だ。確かに観客も釘付けになり、最後まで息を止めて見ていた。目の前で危ない橋を渡っているものに「落ちるな」といわんばかりの空気だった。しかし、これが森田の狙いだったとは思えない。本気なのだろうか。
でも考えてみるとそうかもしれない。綱渡りする姿が危なっかしければ危なっかしいほど、観客が引き付けられる。この緊張感が意図的に出せればすごい事だ。しかし、それは渡る本人が落ちなければの話だ。渡りきったからこそ言える言葉だ。
森田は早速駄目出しの準備にとりかかる。これからあと二度も綱渡りがある。明日も明後日も、一人残らず無事に渡ってほしいものだ。

今日始めて見た演出家イッセーは殊の外格好良い。舞台上各チームの演技を見る所だ。

意味ありげではない言い方を実演するイッセー。「鳩だよ。あたし、時々頭の中が鳩になるのよ。」面白い。続きが見たい。

暗やみ。いきなり照明が点くと、舞台にいるのは倒れた女性、泣きじゃくる少女、呆然と立つイッセーとざわめく群衆。客席も凍り付く筈だ。

動物園のチンパンジーを見に来ている三人組。人が何かをすると、ガラス越しのチンパンジーがそれを真似てくれる事を実演。思い付きが視覚的だ。

ただただ温もりに飢えている二人。恥ずかしがりやの寂しがりや。側に座るだけなのに、この場面の空気がたまらなく好きだった。

画家になりたい夢を妻に話す夫と子供が出来た妻を、公園のベンチからにらむ余所者イッセー。家族を東京に置き去りにした単身赴任。二人は自分の百倍も幸せに見えるだろう。

全員が舞台に上った初めての公演が幕をとじる。劇的過ぎて、写真を取るのを忘れそうになった。怯まずやり通した皆に祝杯をあげたい。