吉村日記

小倉日記 「本番みました」 

 東京での仕事を終えて、2日目3日目の本番を見に小倉に来ました。玄海灘とか無法松とか、なんか勇ましそうな印象。遠くにぐるりと山がめぐり、紫川に小倉城、街は清潔。期待が高まる。

18日朝、いざ登城って感じで個性的な橋を渡ったまではよかったが、どの建物がホールだろうか。色分けはあるけれど建物と建物の境界がはっきりしない公共施設がそこにある。カップル、お子様連れ、奥様などなど、芸術ホールはどちらでしょうかと尋ねてみたが、さあ、と首をかしげる方ばかり。中に案内があるからそこで聞いたらどうですか、って、親切な人の声を背に円形の施設に入っても、案内なんてないじゃん。

やっと7階がホールらしいとわかり、エレベーターを探すが見つからない。エスカレーターで延々と上っていくとだんだん不安になってきた。なんだか、要塞みたいじゃないか。おいでと言ってるんだか、来るなら来いって言ってるんだか。もしかして小倉って、すんなりよそ者を迎えてくれないところ?

☆ 2日目本番前稽古

 ホテルからやってきた雄三さんの表情も真剣だ。あわただしく朝ご飯をすませて、舞台裏からステージ、客席に向かう。いざ、出陣?って。台風で1日なくなって焦ってた新宮のときの表情とは、微妙に違うテンション。

2時からの本番を控えた午前11時。ワークショップでは稽古を続ける。というか、作品がどんどん変容進化していく。しかも、昨日うまくいってそれを軸に構成を考えていけばいい、って雄三さんも安心していた作品の演じ手が今日は都合で来ていないらしい。
 
舞台には、めがねの女性と、ふてくされたような役柄の女性。

れれれ、演じ手が立ち位置に納まると、場内から虫音が聞こえてきた。風の音も、サイレンだって遠くから鳴る。なんなんだあ。こんなのはじめて。

「聞いてて」
「間をおかなきゃだめなの」

稽古つけるとき雄三さんは、演じ手の呼吸を乱さずに指示を出そうとして、背を丸め、顔は立ち上げ、目の下の筋肉を伸ばし気味にする。そんなデリケートな表情で、「聞いて」なんて言われると、虫の声や猫の鳴き声で満ちた中ホールは、秋草のにおいがしてくる。風もわたってくる。

「一人でああやろうこうしようって、これいくらやっても無理なんだよね。せりふ出てこなかったら、黙ってたらいいの。みなが音つけてくれるから」

おいおい、新宮から1週間、距離にしてせいぜい10キロか20キロくらいしか離れてないんじゃないの。なのにここでは、ぜんぜん違うやりかたでワークショップが進行していた。

次ぎは坊主頭の男性と、薄幸そうな表情をうまく出せる女性。これがどうやら、昨日やってうまくいった男性がお休みって演目らしい。もちろん、ワークショップでは、相方がそこらにいる参加者を捕まえて急遽代役でやってみる。打ち合わせもほとんどなしで舞台に立つのだ。

女性は男性の部屋に来たらしい。決して親しい二人ではなくて。どちらも異性関係はにがて種目という感じ。男性がしゃべりはじめる。

「自分でカレー作ってさ。芋が堅くて・・・」背景には、にゃーにゃー、ふぃーと風の音。ふと、身体文学1999年夏のアンチロマン小説版の稽古を思い出した。「遠景、近景、音、におい、事実、心情」と、お互いに無関連な環境の事物を順番に書き出していくだけで、べたつかない感じで主人公の内面が浮かび上がると教えてもらった。そのワークショップで、私生まれて初めて小説書いたよな。と、思い出にひたる。

たぶん、今度の芝居のテーマもアンチロマンに近いってことかな。内面描写に向かわず、新宮のように思い出したリアリティに頼りきらない。それぞれが無関係に、でも、その時点でそこに同時に存在する音、におい、景色、他者。関係があるはずの登場人物同士も、通常の会話は成立せず、自分の中に浮かんできた泡のような言葉をきちんと音にして空間に放出する。その空間を共有するということのいとおしさ、切なさ。そこから生まれてくる関係がドラマなんじゃないかな。
 
現実でも女の子には不器用だろうと想像してしまう代役男性は、カーディガンを脱いで肩をあらわにした女性を前に、言葉が出なくなって、ついカレーの作り方その2、みたいなせりふをつけて、雄三さんに怒鳴られている。

「しゃべる!、しゃべる!、しゃべる!」

どこ叩いてんだか、どんどん言わせながら、雄三さんが「しゃべる!」っと叫び続ける。いつもより、エキサイトしているよね。技法として怒ることはよくあるけど、というかしょっちゅうだけど、実はとても情緒の安定している人。自分の感情で相手を傷つけようってことのほとんどない人。あとで、何度も自ら笑い話にして言ったのは、あのとき夢中で椅子の背を叩いて、翌々日まで手のひら痛くなってしまったとか。「なんであんなに腹立つんだろうね」と首をかしげてうはうは、笑う。

「いい人だなって思わせるためには、しゃべり続けることがここで必要なんだよ。現実ってこういうことなんだ。キスしようとした。でも、男から顔そむけちゃった。すっごいうしろめたいわけ。悪いと思ったが、空気変えようとして関係ない話しし続ける。ずっと話し続けるの。これが現実のやさしさってか、いたましさってか、そういうことなんだよね。ここやんないと、今度の芝居成立しないんだよね」

代役で舞台にあがって、いきなり怒鳴られ続けた坊主頭男性は、本当に大変だったろうけれど、この稽古を見ていた参加者は、今度の芝居のテーマが実感できてきたはず。私はこの稽古、とてもよかった。こういうのきちんと青少年に見せておきたい。泣いて気を惹くことや、夢を叫んで関係を終わりにする嘘ばっかりを恋愛モデルにして成長しちゃあ、いかんよ。

雄三さんはまだ夢中で叫んでいる。

「無理をするってことよ。今、若い人無理をしない人とても多いのね。それと、過剰に人に関わろうとしていく人。ここがわからないと、無理するってことがわからないのね。自分のペースに周りがあうように、いつも持って行こうとしてしまうんだからね。そうじゃなくて、相手のために無理をするの。」

舞台上の二人はおずおずと近づいていき、そっと背中合わせのまま、静まっていった。
 
雄三さんの稽古を見ていて、今回の課題は、大きな声を出すこと。せりふは状況とは関係ないことで口をついて出てくること。この二つらしいことがわかってくる。
 
このあと、三角関係にある女どうしの芝居を稽古して、雄三さんは退場。「イッセーさんやっといてね」と言い置いて。イッセーさんが稽古つけるのを見ることができるなんてめったにないことだ。当たり前のことだけれど、演じ手のどこにひっかかるか、ってのは森田さんといっしょ。30年間二人で芝居作ってきたんだもんね。

雄三さんが言いそうな言葉が、イッセーさんの言葉になって出てくるところがおもしろい。たとえば、演じ手がせりふにつまってしまうと、「即興で言うの、人間即興で生きてるんだからね(へへへ)、即興は失敗しないの。信じていいの」なんて、舞台のせりふかと思うようなことを言って、自分のせりふに「へへへ」、と笑いをつける。かっこいい。イッセーさんの稽古は、自分が演じ手であるだけに、顔のあげ方、せりふの言い回しなど、細部のだめだしにもつながっていく。

気がつくと、開場までいくらも時間がない。もう慣れっこになってて、あわてない今尾さんがもう一度出演者を確認して2日目本番の構成表が大急ぎで印刷されていく。A3の裏表にぎっしり35演目。今度のワークショップでは、参加者全員が舞台に上るという方針が途中で出されたんだそう。それって、結構自己責任ってことだ。

☆ 二日目本番

 そして、私は観客になった。暗転、舞台が明るくなる。えーっ。群衆劇みたいだ。せまい舞台の上にほとんどの参加者が出ている。舞台前方仰向きに倒れている人。その上手で泣いている子ども。群衆と倒れている人の間で、サラリーマンのイッセーさんが事態を防御するように革鞄を胸にかかえて立っている。

状況はサラリーマンに不利だ。通りがかったはずの小倉市民は、善意の集団となってサラリーマンを疑いの目で見、身体で反応する。とっさに携帯で顔写真を撮ろうとする子どももいる。サラリーマンが言い訳しようとするとよけいに怪しまれてしまう。

騒ぎがようやく収まっても、まだ疑いの目で見られてしまうサラリーマン。次ぎの暗転後には、とうとう子どもたちに後ろから運動靴で頭をはたかれてしまう。

状況はかわって、パン屋の行列。割り込もうとしたりそれに抗議したり、とけっこう激しい。まさかあんなに激しくないだろう、芝居のしすぎだろうと思っていたら、これは小倉では有名なパン屋のありふれた状況そのものらしい。現実ってうそっぽいのね。たくましい日常の脇で携帯電話で仕事するサラリーマン。

どうやら東京からやってきた長期出張中のサラリーマンは、小倉での生活になじめず疎外されている。それを幕間の音楽はやさしく慰める。今回の出演者楽団はマンドリン中心。達者なギターも登場。で、マンドリンの明るい叙情性とふるえるような音が、どこかで聞いたことのあるような懐かしい南欧風の旋律を奏でると、疎外されたサラリーマンも、よそ者を押しのけようとする日常も、全部含めてオッケーさ、って気分になってくる。このメロディは、スタッフ全員耳に残り、気がついたら誰かが口ずさんでいるという状態になった。それにしても、音楽監督というか、にわか楽団のバンドマスターっていうか、ベースの岡田さんってほんとすごいよね。本番の2日前くらいに、参加者の中で申し出た人の言い分を信じて、どんな楽器のどういう技倆でもなんとか舞台に合わせた幕間楽団にしてしまう。

場面ごとに小倉のとある場所が設定されているのも今回の特徴。演じ手以外の出演者がその状況にあった音をつけていく。遠くで聞こえるアナウンスとか、どこかで人を呼ぶ声だとか。けっこううまい。練習したんだろうね。ワークショップ終わってもさ、きっと参加者は、家族の晩ご飯のあとや職場の昼休みに、場内アナウンスとか、サイレンとか、遠くでけんかする雰囲気とか、やってみせるだろうね。20年後とか小倉に来たら、こういう擬音の文化ができてたりして。

ベンチに座ってけんかしあう母と娘。とぼけたお父さんが登場し、なじる娘に長年夫婦やってると、話さなくても仲が悪いわけじゃない、と演説し始める。キャラクターの立つ人だなあ、と思ってみていたら、いきなり観客に向かって「ねえ、みなさん」と同意を求めたのでびっくり。でも、存在感の方が雄弁であんまり気にならなかった。笑ったけど。

上手には姿勢のいい半白髪の先生が、小学生と中学生を相手に、昼間っからマゼラン星雲の話しを陶然とまくしたてる。

場面代わって、満員電車の中。サラリーマンは扉に押しつけられて身動きできなくなっている。やっと門司港に着いて、電車から開放される乗客。

代わって、どこか公園らしい。次々と3組のカップル。仕事やめて絵描きで食おうと独白する旦那に、妊娠を告げる妻。アニメみたいな声で関門海峡の鯉のぼりの話しをする女性。下手に進むのは、正体不明だが人のよさげな大男と女子高生。失敗談をうれしそうに話す女子高生の話を聞くのか聞かぬのか、ゆらゆら揺れて立っている男性に、幸せそうにつきまとう女子高生。誤解がありそうだけれど、こんな女の子、ほんとにいたらすっごくかわいいやつ。

一つの場面でいくつかの演目が次々と演じられる。暗転下で、次々と舞台に出たり引っ込んだりするのも、結構たいへんだ。舞台裏で森田オフィスのスタッフが、仕切る。たった二人で。

午前中の稽古で森田さんが興奮して「しゃべる!」と叫んだ不器用なカップルは、とてもよくなっていた。男性は、急いでいるのか時間をかけているのか、不思議な間合いでシャツのボタンをはずし、上半身を見せる。肩を出した女性のそばに近づき、そっと身体を回して背中で近づく。女性がおずおずと身をもたせかけていく。二人きりの密室の出来事ではなく、隣のけんかの声やくぐもった男女のいちゃつく声も聞こえ、たくさんある男と女の間柄の中で、こんな風に不器用で誠実なあり方を選んだ二人が舞台中央に浮かび上がってくる。

そこに下手に現れたのは、身体が不自由な母親と、息子。母親はよい声で詩吟をうなり、上品に着飾っている。これから詩吟の発表会なのだ。息子は仕事をしくじったのだろうか、それとも半分引きこもりなのか。でも、よりそう親子は日本舞踊習おうか、楽団入ろうか、と未来を明るく声にする。強がりではなく、でも、勝者の声でもなく。見ているこちらがやさしくなれるような情景。

場面はスタバ、動物園、陸上競技場と次々展開する。疲れたような、困ったようなイッセーサラリーマンが登場し、あちこちで繰り広げられる人物のかみ合わないやりとりを目撃していく。芝居はサラリーマンのまなざしを通して、人間って一生懸命でけっこうばかで、せつないなあと思わせる。

最後は皿倉山山頂で夜。妖精セミナーへようこそ、とファンタジックな先生とおつきの人たちが登場して、終わる。

ワークショップとしては、これは成功だ。雄三さんが示した二つの課題、大きな声でしゃべることと、その場の情景と関係ないことをしゃべり続けることはクリアしていた。一つ一つの場面はけっこう完成していたと思う。でも、ああ、おもしろかった、という感じにはもう少し何かが足りない。ぜいたくかもしれないけれど。

☆二日目だめ出し

 2時開演の芝居は1時間半ほどに収まった。でも、客が帰ったそのあとの舞台で、だめ出しが行われる。

「声は聞こえるようになったよね。それと、全般の組み立てはできてきたので、今度は受けることを考えていってよい段階に来てます」と雄三さん。全般の組み立てはできている、というのは、登場人物が、よくあるテレビドラマ的対話によらず、その場に関係ないことを投げだしあうというそのことを言うらしい。でも、これまではこの二つをとにかく守っていけばよいということだったはず。自分で考えてきたせりふや、受けをねらうあざといせりふやしぐさは使ってはだめだった。

新宮でもそうだったけど、参加者の中にできあがっている芝居風せりふの思いこみを一旦きれいに消し去ることが最初の稽古。そのためのしかけとして今回のワークショップでは、関係ないせりふを大声で話す、という課題が与えられた。しかし、それを守って演じた芝居は観客に関心は抱かせるものの、安心して大笑いするというところへはつれて行かない。それが2日目本番の芝居だったというわけか。なるほど。

3日間、3回公演というのは、客を入れてはじめてできる稽古と、それによる発達のプロセスとなるのか。

「たとえば、公園にいる。アパートにいる。お芝居にならないことを普通にやる、それをどうしたら芝居に組み立てていくか。間とれ、とかしゃべり続けろと言われたことが、次ぎの段階ではとらわれになっていくの。日常でしゃべる普通のことを大きな声で言ってみて芝居にしたんだけど、今度はそれをどうやって日常に見えるとこまで戻すのか。それが明日の芝居の課題ね。何人かはできてます。すると、客の反応があったわけね。」

「何かあるってのを作っていきます。そのためには、人物がその日に何があって、こんなことを言ってるのか、想像してもらいます。でも、それをせりふにはのっけない。たとえばたこの滑り台の公園で話す二人の女ね、一人はずっと仕事してて、もう一人は3回も結婚するって設定。もしかしたら一人は今日上司とけんかして、で、結婚控えたおさな馴染みと会ったけど、自分の方がきれいなのに、って思っているのかもしれない、とかね。そして、その思ってることの氷山の一角がせりふになっていくの。一緒にいる人は何があったのかはわからない。でも、かみ合ってないけど何かあったんだろうな、って思いながらそこにいるわけ。これがリアリティなのね。」

「金ない、金ない、って言うのじゃなくて、俺さあ、ビフテキ食ったけど、あれあんまりうまくないよなあ、ってせりふの方がなんかあるじゃない。こういう高度なこと今度のワークショップではやってるのね。自分だって自分の気持ちはけっこう忘れてたりするけど、相手がいることによって、なんかすごく腹の立つことなんかが出てくるとかね。でも、それを直接会話にしていくわけじゃないの。」

そういうことだったのか。1998年暮れに私がはじめて参加した身体文学の頃から、なんでこんなことやるのか、ってことばかり。でも、それを丹念にやっておいて、脇においといた「気持ち」、とか「感情」、とかいうところに戻ってくると、人がみて安心して笑える文章や芝居になっていった。今度も最終コーナーに入る前にそれを伝授されているのだ。普通は、こっち方面から行くよね、心とか内面とか。でも、そうしたら、だれだって自分の過去とか記憶とか、感情、心にとらわれてしまう。自分だけの経験だと思って取り上げてみても、3面記事やワイドショーで取り上げられる殺人事件の背景のようなステレオタイプの筋書きになってしまう。

それからは、今日の演目ごとに注意するべきところが指摘されて、6時ごろに解散。

楽屋口のエレベーターに向かう雄三さんは、夕景の山と川と町並みに「ああ、きれいだなあ」と、とても素直に感動している。毎日10時近くまで稽古していたから、窓からゆっくり景色を眺めたのははじめてなんだって。本当に小倉って美しい街だ。三方を囲む山、たっぷりの水量の紫川、お堀、お城。

この瞬間だって、皿倉山で、映画館で、門司港で、だれかがお互いの心の中の泡ぶくのような言葉を音にしているんだろうね。

☆19日 本番3日目   そしてワークショップの終わり

 今日も11時から稽古。順番に舞台にあがっていく。状況を説明するようなせりふは、ことごとく削除となっていく。たとえば、「ああ、よかったあ」とか、「そりゃあねえ」とかから始めるせりふはだめ。ずばり切り込むせりふは命をもつ。「見た目は悪いわよ」「やっとちえが飛ばされた」とか。すじを理解することじゃなくて、そこになまに人が存在するせりふ。

この後に及んでも、まだ、芝居は成長していく。昨日よかったことが、今日はもう次ぎの課題に入ってて、だめがでる。たとえば親友同士が男取り合う関係になる芝居。先につきあってた女は泣き続け、もう一人のさばさばした女は背をなでてなぐさめていた。でも、今日になって演じ手が泣き始めたら、これは違うらしい。

「泣くことへの予定調和に、俺つきあって稽古できないぞ」と雄三さん。

泣き出す女が嘘泣きだって気付いてるのに、慰めたりしたら嘘になるという。でも、けっこう世の中って、うその対話とかやりとりに満ちているね。こうやったら、こう言うだろう、その次ぎはこう来て、と、3手先くらい読みあって生活してる。なんか、そういうやりとりにつきあっていけなくて、中学行けなかったって学生がいたっけ。

へつらう部下と、難波のおばさんキャリアの芝居。昨日のだめ出しが生きてて、へつらう男部下は奇妙に顔を近づけて関係ない言い訳を続ける。こういう奴っているよね。でもって、めんどくさくなって、もういいですって言ってしまうの。これ本番化けたよ。

スタバの芝居では、どんどん照明が切り替わるので、短い投げだしせりふをいくつか用意しておくように言われる。もう、ここまで来たら、その場で口から出た言葉を言えって言われない。用意するったって、「奥様お元気?」なんてせりふじゃないからね。たとえば、「私はフィリピンじゃなくて、台湾がいいの」なんて。これは、バナナの話しなんだけど、説明的なバナナなんてのはなくしちゃった。次々とこういうせりふがあちこちに浮き出る仕組み。カフェってそうだよね。あっちこっちでちょっとずつ耳に届くのは、いつだって、こんなドキンという所だけだ。今日になって、スタバに男性一人が登場。客に近づいて何か勧誘する。

そして、最後の皿倉山のシーンの稽古。昨日、清子さんが最後のシーンみんな出てきたらどうだろうって言ってた。ちょっと離れて見ていると、雄三さんがなんか工夫したいけど、どうやったらいいかわからないってとこが清子さんにはよくわかるらしい。

雄三さんの指示は、最初のシーンと同じような形を作っていこうということ。舞台前面には妖精セミナーへようこその先生と、お付きの二人、背景にくっついてそのセミナーの参加者たち。途中から酔っぱらったイッセーサラリーマンが群衆の最前列の椅子にどっかと座る。どうなるか、ってことは詰めずに出の練習だけがていねいに続いて、あとは本番を待つだけ。

☆ 最後の本番

 いやあ、おもしろかった。午前中に雄三さんの前でやったのからまた進化した。みんな、さあ、どうだって感じで自分の味を出してきた。でもって、全部のシーンに共通の底ができた感じで、一つ一つが浮き上がらない。イッセーさんが縦糸で出てくるのも、とてもよかった。つながっていく感じ。

笑った笑った。くすぐりとか、笑わせようとかいうとこじゃないんだけど、笑った。だって、ユーモアって結局、ヒューマンってことだもんね。人間が一生懸命普通に生きることをやれば、それはとてもおかしいことなんだ。そのおかしさはまた、自分の生活も、ちょっと離れてみたら、なんて滑稽なんだ、って感じに跳ね返ってくる。そしたら、たいていのことは、そんなしかめっつらしなくても、なんとかなるように思えるじゃない。お客さんはそんな印象をもったんじゃないかな。

演じ手は、みな、この人物実はこんな背景にいるんだってのを考えてきてる。でも、そんな背景を説明するせりふは見事にそぎ落としてる。だから、たいしたせりふでもないのに、なんかニュアンスがある。そこにお客さんが微妙に反応する。お客さんの反応は、演じ手を勇気づけて、もう一歩踏み込んだ芝居を展開させる。まったく、芝居の稽古と舞台ってこんなに違うのか。それとも、イッセー尾形の作り方のワークショップに特有のことなのかしら。

舞台からは逃げられない。お客がいる。そこで思い切ってやるしかないって状況がみなを押し出していく。たぶん演じ手も気付かなかった自分がそこにいる。舞台に立っている。

間がよくなった。自分だけめだとうというか、うまくやろうとするのじゃなくて、相手の動きや身じろぎが自然に伝わってきているんだろう、無理のない身ごなしが、大きな声でしゃべるせりふを自然なものにしていく。

めかり公園?の人たちは、夫婦だけど、ちゃんとめかし込んで来て、受胎したって言っちゃうし、のっぽの先輩は、女子高生にかまわず舞台上走り回ってはしゃいでる。自分が信じてる人物をやってみても大丈夫ってことかな。

昭和館って映画館では、ジュースすする大男やら、いびきかいて椅子からずっこける男性。映画の途中で話しかける客。しかも、イッセーサラリーマンは、携帯探しにちん入してくる。でも、映画館って、街なかで引きこもる場所みたいな役割あった。今のシネマコンプレックスじゃ、座席は指定で、ディズニーランドのアルバイトみたいなお姉さんが仕切ってくれる。映画見るにはいいけど、ニュアンスのある映画館での憩いの時間は消えてしまった。小倉には残ってるってことかな。布張り椅子の湿ったにおいがしてきそう。

リバーウオークの川べりのカフェ。上手からも下手からも、威張る上司とへりくだる部下がでてくる。「どうでもいいけど、私にいつも大盛り頼まないでいただけます」なんてね、これ、けっこう目方のある男性の言いだしのせりふ。下手の難波の女性上司は、大坂弁でまくし立てる。男性部下はまったく的はずれな返答を熱心に返す習性がある。そのうち、どうやら、この二人一回だけ関係をもったことがあるらしいとわかってくる。近いのか遠いのかわからない間柄が、浮かんできて、笑えてしまう。

港の公園。気まずい三角関係。これは3回目化けたね。二人の女性はどっちもゆずらない。かといって、男とりあって張り合うというのでもないな。自分の生き方で競り合ってるというか、どっちもかっこよかったな。いい女になったよ。まったく。

室内のおずおずとした二人の男女。男は初日に演じた男性。やりとりのあと結局男だけ出てっちゃった。肩露わにした女性は、脱いだときと同じスピードでためらいがちにカーディガンを羽織る。なんかかわいそうだ。

私が3日目とくに気に行ったのは、陸上競技場かな。女性コーチと、女子中学生。二人は大まじめにイメージ練習に励む。二人だけのスポ根ドラマ。一生懸命その場駆け足する女子生徒に、間合いをはかって、「よし」とかけ声かける、なんていうか、そのタイミングのもっていき方というか、もう、客なんて目にはいってません、って二人の空気が思いっきりおかしかった。しかも、イッセーサラリーマンは、そこにもやってきて、先生の指導が時代遅れだと、口出しするのだ。一日のうちで、そのシーンだけが自信に満ちた口調のサラリーマン。

遠くで呼び出しのアナウンス、競技場内のオウーッというどよめきの声。

皿倉山は夜になっている。舞台後方にはおおぜいの人が集まってきている。妖精セミナーの先生とお付き女性二人。先生は瞑想状態なのか、横たわる。群衆の前に、舞台上手と下手に二人のお付き女性。口上を述べる女性にいざなわれて先生がゆっくり身を起こし、客席に向かって、うんともったいつけて妖精の国へようこそ、と浮かんできた詩をよみあげる。みなうっとりする場面なのに、酔っぱらってるのか、椅子に座ったイッセーサラリーマンは、動物園のようなよた声をあげる。ウオッとどよむ群衆。でも、何ごともなかったようにセミナーを続ける先生の話。暗転。「小倉に骨うずめるぞ」と叫ぶサラリーマンの声。
 
おもしろさが文章に書けたらいいんだけど、3日目の芝居のおもしろさって、どうしてもうまく言葉にできない。とにかく、ずーっと流れるように見てしまって、ああ、いいなあ。いさかいもだましあいも、見当違いのがんばりも、排除も寛容さも、みんな一日のうちに収まってしまう。そんなことがすとんと胸に落ちる感じ。おもしろくておもしろくて、すっとした。

お客が満足そうに帰っていったあと、ロビーの一角でワークショップの参加者、スタッフ全員で交流会が行われた。全員の自己紹介もあって、みんなとても盛り上がる。雄三さんの挨拶を紹介しておこう。

「自分の責任でやってるってことが、これがすばらしいことで。なぜ、これだけ内容もない、演技もうまくないことでお客さんが受けるか(笑い)っていうのは、簡単にいうと、みなさんがひとりひとり責任をもって舞台に立ってる。この状態になるまでにいろいろ苦労があったわけだけど、なかなかすばらしい完成度だったと思います。ま、個々のだめだしはあとで、聴きたきゃ(大笑い)。」

「まあ、もう少し個々のことで言うと、男の子が女の子と部屋にいて、部屋からいなくなっちゃった。これはねリアリズムの芝居ならあるかもしれないけど、この舞台の特徴としてはとにかくみんなが舞台にいたいってこと。こんなワークショップ来なくていいんだけど、自分から進んで来た。みんな舞台に出るって言ったと。基本的には、こっちから下がってというまでは舞台にい続けるって、こっちの選択の方が正しいんだよ。普通の人間が舞台にいるだけでいろんなことを想像するのよ。だから、陸上競技のコーチも舞台から下がらない方がよかったのね。そしたら、もっといろんなことがいっぱい拾えてく。現実はみんな舞台から下がるけどね。でも、この舞台は最後まで舞台ってとこにいる自分から見えるものを見ていこうってこと。」

「それと、舞台に上った人の中に、あきらかに演技が下手な人とかせりふ考えてない人とか(笑い)、身体や心の具合が悪い人がいたよね。でも、それをお客さんがこの芝居見てるとデリケートになってるから、すごく優しいのね。で、ちょっと無理なテンションになって、舞台にわーって出てしまっても、決して変わってる人だな、って思わないで、それを全員が優しく笑うんだよね。こういうことって芝居ではめったに起こらないことで、観客をそんな雰囲気にしていったみなさんはものすごいものがあった。これが、北九州のワークショップの一番の成果かな」

今回の課題は、その場で状況に依存しないで口をついてでてきたことを大きな声でしゃべる、ということ。ワークショップのプロセスを見ていないから、どんなときにどんな風に課題として出されたのかは知らないけれど、芝居見終わった私は精神分析の自由連想ってのを思い浮かべていた。クライエントは寝椅子に横になり、浮かんだことをそのまましゃべることを要求される。実際には、そんなクラッシックなやり方は日本ではほとんど実行されていないので、私も経験していない。でも、自由連想って、いわば、心の中に浮かんできた泡ぶくを、点検しないで言葉にしていくって作業。そんなこと言葉にしても、ほとんどはつながりがない。でも、その心の中では、コンプレックスや嫉妬や、不安や、自負心や、人に甘えたい気持ちなんてのがしっかり存在している。全部を見たら、とてもじゃないが社会に適応していくことは無理だろう。

私たちの日常でも、結構泡ぶくは言葉や行為になって出てきている。私たちが自分でも気付かないふりをしたり、ほかの脈絡にこじつけたりしているだけ。いっしょに居る人もまた、気付かなかったり、気のせいだと思うはず。

通常の会話って、とても予定調和的。固有の対話をしているつもりでも、パターンのうちから選択しているだけだったりする。そんな会話を排除して、その場に関係ないけれど、登場人物だったら、どこか切実に感じていそうなせりふを出していく。登場人物もまさか自分で口にするとは思っていないかもしれないせりふ。雄三さんが要求したのは、そんなこと?

お互いにかみあっていないように見える会話だけれど、意味の上でのつながりじゃなくて、根っこのところから共振れして出てきているせりふだから、お客はとてもおもしろかったんじゃないかな。二人がそこにいることにやっぱり必然があるってことが伝わったのかもしれない。

それに、泡ぶくって、うっかり口にすることはあっても、堂々と大声でしゃべるって行為は似合わない。でも、演劇でなら、それは可能だ。まず、自分自身の泡ぶくじゃなくて、登場人物のそれである。そして、思い切って口からついて出たことを大声でしゃべってみると、意外に爽快だし、自分の内面にあったものとは思えないほどあっけらかんとしていく。観客はそんな試みをしている演じ手に、しっかり共感してくれたんだと思う。演劇の半分は客が作るものじゃないかと私は思う。だから、客が、受け止める半分に振れるか目をそらす方に振れるかによって、演劇の完成度は天と地ほど違うんじゃないだろうか。今回の小倉ワークショップの本番は、意味の世界から思い切ってもう一つの言葉の世界に飛びこんだ参加者集団が、客をも引き寄せて作り上げた、不条理で、且つ、暖かい日常ドラマだったんじゃないかしら。

(終わり)