吉村日記
福岡新宮ワークショップ参与観察日記
☆ 台風一過 9月7日
昨日は台風。14号は自転車なみの速度で九州をのったり縦断していった。宮崎や大分では被害が大きかったが、福岡は実はそうでもなかったらしい。昨日、さあ博多に飛ぶぞ、と意気込んで起きたら、飛行機飛んでなかった。そのうち、新幹線も止まってしまった。テレビでは、九州の街が台風に翻弄される様子を伝え続けた。博多に泊まっていた森田雄三さん、イッセーさん、スタッフたちは、たいした雨風もなく中止になったワークショップの1日目をぶらぶら過ごしたらしい。1日もったいなかったね。
東京で伝えられる地方の状況って、実情と違っているんじゃないかな。飛行機飛ばないのは仕方ないけど、全部まとめて、大変だあって言わないで、どことどこは大丈夫って情報も大切なニュースだと思う。まあ、余談だけど、震災のとき、繰り返し繰り返し炎に飲まれる家や、ぐじゃぐじゃに倒れたビルばかり映し出されて、ほとんど卒倒しかかった神戸っ子の私としては、実感だね。
1日目というか、本当は2日目だったはずの7日の夜の部から私は参加。 ちょうど昼の部のあとの休憩時間。雄三さんは焦っていた。もともと5日で芝居作るってのが無理なのを、いつのまにか4日がスタンダードになってただけでも驚き。それが、台風のおかげで3日になっちゃった。こんな焦ってる雄三さんもちょっとめずらしいかな。スタッフみんなで、これまでだってできたんだから大丈夫って口々に言うんだけど、雄三さん一人早めにテーマを決めて行こうって感じ。まあ、雄三さんがワークショップを動かすんだから、周りが大丈夫って言ってもまったく意味がないんだけど。
昼の部は、どうも、この土地のテーマが見えにくかったんだという。いくつか感触をもったテーマを、遅れてきた私に説明するかっこうで確かめていくけど、どうも実感は湧いてこないみたい。あとで、雄三さんのこのときの感触が大体正しかったことがわかるけれど。
ワークショップは、その土地そのワークショップが始まって、この集団が共通して反応するテーマは何か、って感じで探りながらみつけていく。方法論は結構できあがっているけれど、肝心のテーマは、ライブでみつける。2日目でみつかるか、3日目でみつかるか、まったくわからない。その緊張感が、ワークショップに命を与えていく。
☆ ワークショップ1日目夜の部
舞台上がワークショップの会場。がらんとした客席は灯りも落ちている。昼間の部に出ていた人もけっこう残っているから舞台上に二重円を作った椅子に座る。
「思いつく名詞、言ってみて」
恒例、言葉回しである。ここでしっかり言葉回しておかないと、ワークショップがすすんでも、次の段階を教えたら、まったく振り出しに帰ってしまうんだって。これは、身体文学のワークショップでもいっしょだった。身体文学のワークショップの初期と違うのは、参加者の数だ。1998年暮れ、金沢でひっそりやっていた頃の身体文学は、20人から30人くらい。それを雄三さんはさっさと個体識別して、1対1の関係の人数倍のエネルギーでやっていた。そのうち、身体文学も50人60人と増えだした。そして、今度のイッセー尾形の作り方では、昼夜合わせて100人を超す大所帯。ところが、数の多さがけっこう省エネルギーにもなっているのだ。
言葉が回っていく。思いつく名詞、とだけ言われて、何を言ったらいいのかたいていの人はとまどう。そういうとき「え、名詞言えばいいんですか」と、指示を繰り返す形の質問をしたりする。今回のワークショップでは、1日足りなくなって焦っているけれど、雄三さんはとってもやさしく指示していた。だから、「名詞じゃなきゃだめですか」って問いにも、「そうですよう」って感じ。トンネル、とか座布団とか、出てくるけど、「おもしろくないな」と笑顔で言う。すると、「黒豆あんパン」とか「船着き場の犬」なんてのが出る。「こういうことね、凝った言葉言ってね」とちょい評価するだけで、円を囲んでいる参加者は何が求められてるのか、理解していく。要するに、観察学習ですね。以前は手取足取り指導していたのが、大勢でのワークショップでは、うまくいった反応を評価するだけで、全体の水準があがっていく。みんな一度はだめだなあって言われるので、自分の答えがだめだって言われても、そんなに傷つかない。参加者のモチベーションの高さと、イッセー尾形になりたいって、ある種一定の方向向いている集団だからできること。それと雄三さんが指導するのがうまくなったと思う。一族に多いからとずっとばかにしていた教員て職業。雄三さんは人を変えたり、教えたりがすごくうまい。でも、人をコントロールしようとは決してしない。だから、ワークショップが終わったあとでも、雄三さんに頼り切る感じになっていく人はめったにない。
言葉回していくと、
「素足の外人」
大笑いだ。ワークショップの参加者の写真を撮ってすぐにプリントして、会場にはってくれたりする、テイヨ。彼は元モデル。長い足は裸足になってて、舞台上、雄三さんのそばに寝そべって、参加者の表情をねらってたんだ。だれもが、彼のこと注目している中、それをまんまに言葉にしていくその行為がおもしろい。ところで彼の写真では、どうしてこう皆が美しい表情をしているのか、不思議なぐらい。私も撮ってもらって、自分とは信じられなかった。ほんと。
でも、素足の外人の次ぎに、
「スリッパの日本人」これはどうもねえ。
「セーラー服を着たおばあちゃん」
雄三さんは「受けねらいすぎ。もっと個人的に想像する感じのもの言って。受けねらうのは、お笑い芸人にかなわないからね」
課題は「場所」や「人物」と変わっていく。
言葉回しは、回す円が大きいので、自分が発言するよりも、誰かの答えを聞いている時間が長い。余裕をもってどういうことが要求されているのかが理解されていく。
休憩のあと、思い出しの練習。昨日なにやっていたか。つまり、博多に台風がくるというので、学校は休み、職場も早じまいだったその日、ぽっかりあいた時間をどのように過ごしていたかということ。台風は来なかったけど、思いがけずに時間のできた一日は、日常という台風の、目のような静けさだったろう。そういう日の過ごし方は、確かにその人らしい味があるはず。
次に雄三さんは、だれかと自宅以外のところに泊まったときの体験を思い出すように言う。そうして、親戚とか近所の人とか、こっちが聞いてないのに、くどくどしゃべりまくる人のことを思い出す課題になる。雄三さんは、手探りで新宮に集まった人のもつリアリティを探している。これは、とてもヒットしたみたい。祖母だったり、通勤途上で出くわす近所のおばちゃんだったり、親戚の人だったり。いきいきとその人になってしゃべり始めた。できるだけ意味がなくていいから長く話し続けるように言われる。その人を思い出して、その人のいるところに立てば、せりふはするすると出てくると言われる。
自分の中のものを出さなくていい、ということで、参加者がとっても自由になったらしい。言葉回しなどのセッションでは、新宮の人って標準語で話すんだなと思ったのに、くどくど言う人になりかわってしゃべり出すと、べたべたの博多弁が続く。音楽的で開放的な言葉だ。リズムもいい。
☆ワークショップ2日目
昨日夜出席した人が、昼の部から参加した人にどんな課題をやったのかを教える。 親戚のおばあさんのしゃべりをやってみせたら、昼からの参加者も何をやったらいいのかすぐわかったみたい。雄三さんの今度のワークショップの特徴は、とにかく、とてもやさしいこと。これまでは、挑発するためと、通常の対人関係の持ち方と違うことをやるって示すために、けっこうずばずば切り込んでいくやりかただった。ところが、参加者が雄三さんの言うことを理解してなくても、無駄な言い返ししても、にこにこ笑って余裕の態度。休憩時間に言ってたけど、「怒らなくても、できちゃうんだな、て俺わかったよ」
くどくど言われるその人の口調でしゃべり出す。雄三さんは「演技のうまい下手じゃないのね。こういう人いるなってわかればいいの。だから、説明しないでね。繰り返し繰り返し同じ話ししてみて。演じてみたら、いろんな感じが身体の中によみがえるでしょ」
「間をとって。いつも聞いてる側だから、やたらせかせか話されてる気がしてるけど、しゃべる側に立つと、けっこうゆっくりしゃべってるもんなんだ」
くどくどしゃべる人の名前を言うように言われる
恋に落ちたときの清美ちゃん
奥さんの自慢してる福田係長
事実を言ってるだけなのに、名前を言うそばから口元が笑っている。思い出しが始まっているのだろう。
「こつだけど、内容思い出してやっちゃだめ。やっていく内に思い出すのね。だから稽古せずにできるのね」
「最初の一言が出てくれば思い出せるよ。それと、音に注意してね、最初の音、まねして。そしたら、音から続いていくからね」
くどくどいつも同じこと話す人の話は、たいてい適当にしか聞いていない。だから、こっちの耳に残っているのは、音とか気配とかそんな感じで、内容はどうでもいいということらしい。
休憩後、参加者の半分ずつを舞台奥の方を下手から上手に歩かせる。あと半分は見ている。そのうち、とても目立った歩き方の人がみなの印象に残る。上半身をやや前傾させ、肩から腕をほとんど動かないで、とぼとぼとぼと歩いていく。しかも、結構速度はある。彼女の歩きかたを見て、みんなそれを歩いてみる。腕を固定する人、前傾を強調する人、歩幅を小さくして歩く人、まねしても多様な歩き方になり、どれもなにかある人かな、って感じがする。
「彼女は普通に歩いてるのね、でも、それをまねするととても不自然だったでしょ。他人の自然は自分の不自然なのね」
次は立つってこと。
「家の中で立ってみて。だれにもみられてないときに、そんな意識した立ち方してないよ。演じるのでなくて、あそこにいるってことを思い出せばいいのね。自然に立つってことは不自然に立ってることなのね。小さく不自然にしてみれば、自然に見えてくるからね」
ここから、舞台に二人が立ち、一人は、相手が聞いてなくても話し続けるという課題となる。少しずつ、新宮のテーマが芝居になってくる。
ここでの話題は、くだらないこと、たとえばハムスターならばうまくいくだろうけれど、老人の不倫なんてテーマは特殊すぎて、今回のテーマにはならない、と説明される。
夜の部では、犬とか猫とか飼ってる人が、その犬、猫とやりとりする課題。昨夜は、くどくどしゃべる人になって話す課題は、みなとてもよくできた。今回は動作である。猫や犬がそこにいるように想像するのは、楽しい課題なのか、とてもおもしろい動作が出てきた。また、猫や犬に話しかけるという課題で、何もしなくていいから、猫役というのも舞台にあがることになった。けっこう猫にははまるよなあ、という役者が数人出たのは儲けもの。
ここから4人が家族という形で登場し、それぞれがかぶらないように、お互いが聞いていないような話を一人勝手にやるという状況。どんなことを要求されているのか、舞台にいる人はまったくわからない。おそらく、家族を演じるというイメージからは遠く、とても不自然な状況をやらされてるって感じだったろう。でも、こっちで見ていた私たちには、それぞれが自分だけが関心をもっている話題をだれかが聞いているとか返事してくれるとかおかまいなしにしゃべるのは、すごく家庭って感じに見えた。よく知ってる家族のあり方で、なお且つとても新鮮な家族の芝居。
この日の昼の部が始まる前、会場ロビーに一人いた女性にインタビューしてみた。清水明子さん。ストレートヘアーで明るい表情浮かべながらちょっとうつむいてる感じの人。
「短大時代に演劇サークルに入っていました。昨年の小倉のワークショップ(身体文学)に来て、結構ダメージ受けたんですよ。で、傷口を忘れかねてきてみました。そしたら、雄三さんがめちゃくちゃやさしくなってて、どうしたのかな(笑)。昨年は、名前で呼んでもらえないことにまず傷付いたんです。言ったことがつまらない、って言われて、また傷付いて。でも、今回は名前呼ばれないのも平気です。これから何かができそうな感じもあります。仕事は、道路の交通情報やってます。NHKとかローカル局とか。もともとアナウンスとかしていて、これしかできないんです。」
もう一人早めに来ていた男性、久保進さん。やや八の字の眉毛に、いつも心持ちあがった口角。ポロシャツ姿が印象的な人。「佐賀県から車で2時間以上かけて来ています。自分のからをやぶりたいというか。この年になって恥ずかしいですけど。どちらかというと、暗いので、今までと違うものを出してみたいと思って。昨日昼間きて3時間あっという間で、日頃使わなかった脳を使って、夜は帰って、眠れそうになくて寝酒をして、頭アイスノンで冷やして(笑)。いいですね。こう刺激受けるのって。40をすぎると、自分を隠すって方にいってしまうから、自分を出すという機会ないですよね。」
稽古の合間に隣り合って仲良く話す二人の女性に聞いてみたら、湯布院に共通の友人がいることがわかり、意気投合したところ。しかも話してみると、職場が病院という共通項までみつかり、年来の親友のようになったみたい。男と女の差違ってそれほど感じないで生活しているけれど、友人を作る能力というのは、どうも、女性の方が長じているんじゃないかな。そして、こういう風に仲良くなっても、みんな個人個人で行動するようになっていくところがこのワークショップの特色だと思う。通常の趣味のサークルとか行くと、仲良い人とそうでない人がそれとなく分け隔てしたり、いろいろ大変なこともある。
☆ ワークショップ3日目 稽古最終日
開始に5分ほど早く、雄三さんは会場に出て行ってしまう。
「気持ちがあせってあせって」と参加者を笑わせる。
「自宅で行きます。座布団かいすか決めてないけれど。で、台風の夜にしよう。交通機関止まって、外に出られない時。台風のことは、一応話題にしない。結構その時、のんびりしてたわけで、だから、台風以外の話題を持ち出したりしているのね。お父さんだけはいない。帰ってきても、家族はあんまり慰労したりしないのね。ここは平和な土地だからさ(笑)。わざわざ行為でしなくても、家族は成立してると思うのね。台風の夜だから、なんか刺激されてみんなべらべらしゃべる。で、衣装としては、パジャマというかねまきをもってきてほしい。ちょっと昔を懐かしむ感じがすればいいのね。で、男の人は、背広にしてください。あるいは、作業着とか。帰ってきたという感じね。」
昨日までのたった二日の稽古で、今日はもう、だれかと組んで芝居の原形を作って行こうという進みゆきになった。
「こつはね、肩が凝るって小さい声でいうと、なんか本当にかわいそうだってことになるの。大きい声で言うと、肩が凝るってことを言うのが好きな人になる。こっちをやっていきますからね。大きい声で言わないと違うものになるよ。しんねりむっつりやるのって、いい女といい男でないと芝居にならないからね(笑)。」
「ただ、約束してほしいのは、舞台の上で緊張して困ってるってことを客にわからせてはだめね。」
とうとう、二人組んで舞台にあがることになっていった。
「普通の人って、幸せにバイタリティもって生きてるの。欲望はいろいろあるけれど、でも自分の人生、すごくいいところあるから。のんべんだらりとして、なんか汚い部屋でこれが幸せだっていう再発見したいのね。」
「独り言の練習したけど、そればかりだと単調になるから、途中で会話したりするといいね。でも、会話から入るのは楽だけれど、だめね。」
ヒットが出だした。
稽古ではきまじめに考えてだめが出ていた久保さん。街でばったり会った高校の同級生が、ニューヨーク滞在して出世してた、と話し出す。くやしそうとか感情過多にならないで、にこやかで、でもちょっと辛いって感じがとてもよく出てる。そこに、雄三さんの指示で、猫をチョマアと呼ぶばあさん役の松田さんと、娘役に女性二人が投入される。
雄三さんの指示で、2人の女性が、ねそべってお菓子をつまみながら、行儀悪くしゃべる。3人の男性たちは、のみやでぐだぐだとしゃべるが、相手に聞いてもらっているかにおかまいなく自分の話をしている。これが芝居か、と思うような場面の連続だけれど、なぜか、見てしまう。こういう場面って、見る側に立つことがめったにないものだってことがわかってくる。つまり、街角でも家の中でも、だれも注目しないような、そんなほっとしたひと時ってこと。
ふっくらした感じの魚住さんと、岡田さん(だんなさんの方)。縁側に二人して並んで座っている設定で、魚住さんがのんきにしゃべり始める。話題は、梅雨になったら雨蛙が道路を渡ろうとして、次々車にひかれてべちゃっとなっていくという話し。おかしかったあ。力が抜けていて、雨蛙の身の安全が気になってしかたない、と、男性に話し続ける。うまく行ったので、高齢者見合いという設定にしようということになる。
徳永茂さんは、どうも演劇をやっているらしい。組んだのは、古賀ななえさん。女子大生。古賀さんの問いかけはどっきりする。普通のかわいい女の子が、デートで「黄色と緑とどちらが幸せだと思いますか? 」ナンセンスな質問と、男性の答えを聞いて、予期しなかった失望や欲求の表出。
そのうち、舞台に出していい、という合格ラインに達した芝居ができあがってくる。
若い男性で、あやのすけくん。チョマアと猫を呼ぶ松田さん演じるばあさんと組んで合格。
雄三さんの基準は明確。一人しゃべりを続けることと、大きな声で話すこと。組み合わせがお互いの持ち味を消さず、二人がそれぞれしゃべることで、何かがうまれてくるようならば、合格。落ちもくすぐりもひっかけるものも何もない。
「明日は本番ですけれど、稽古のつもりでいきます」
昼の部と夜の部は、短い休憩を挟んでそのまま続いていく。夜の部からの参加者は、もうすでに芝居ができあがりつつあることに驚いたとうが、実際にやり出すとかえって夜の部の方から合格組が続出しだした。今回のワークショップでは、見ることがとても大きな力になっていったのだ。ほかの人を見ることによって、どんどんレベルがあがっていく。3日の稽古で芝居を演じるなんて、本当は雄三さんでも無理だったかもしれない。でも、今回は与えられる課題がぴったりはまり、参加者たちは身の丈のちょっと上を示されてはよじのぼって、いつのまにか、ほぼ全員がにこにこ同じ地点に立った。とても自然な感じだったけど、驚異的で調和的出来事だったのだ。
だめが出た組はまた、再挑戦していく。
積極的とか、めだとうという感じはないのに、促さなくても、流れるように、次の組が間を置かずに舞台にあがっていく。こういうの、この新宮グループの特徴だと思う。競争心は感じないのに、等身大に自分を表出していく感じ。
2日目の午前中。イッセーさんがCMに出演したニビシ醤油の工場を表敬訪問した時、私もお供させてもらった。工場見学という言葉に弱いもので。その時、昼休みにイッセーさんの歓迎集会というのが開かれて、それぞれの作業に区切りがついたら、集会所に集まることになった。遅くまで作業をしていた人たちは、どの人も急いでいることがこちらにしっかり伝わってきたのに、よく見ると、駆け足で息を切らしたりしていない。他者への本気の気遣いと、でも、そんなことでは曲がらない自分のペース。いいなあ。これは、絶対東京にはないものだ。
雄三さんはよく言う。ワークショップで、いかにも考えていますというように頭を抱えたり、遅刻したときに頭を下げて顔を突き出しへこへこしたり、作業でいかにも働いていますとアピールのための行為をしたり、言い訳というか、そういう記号的行いが習い性になっていることを指摘して、やめるように言う。もしかして、新宮近辺の人たちって、自分の行為が人からどう見られるかよりも、自分の中から出てくる動機とか感情を大切に生活しているんじゃないだろうか。
でも、自分勝手じゃ全然ない。そんなことが舞台でも見られるような気がしてきた。
今日、昼間の時間にロビーでパソコンを開いて仕事してた、ごっつい男性にインタビュー。坊主頭で、眼光炯々って感じの人、昨日も存在感光ってた。藤本勝洋さん。
「子どもの頃、音読っていうか、みんなとても不自然に読むじゃないですか。あれが気持ちよくないなと思ってて。学芸会のとき、普通の日常のしゃべり方で友達どうしのようにせりふを言ったら、みなとても笑ってくれたんですよ。『おい、みな何してるんだよ』って。ゾクゾクしましてね。で、中学のときに狂言の柿山伏の読み合いをやったときに、テープで狂言聞いたのをそのままにやったんですよ。一緒にやった男も乗ってたし。それで、また、うわっと受けたんですね。なんか、そういうものに関わりたいな、と思ったけど、親父は軍人みたいにきびしくて、恋愛から音楽まで制約されて。で、文学とか演劇の方に進まずに、親の思いに従わないと悪いなと思って、九州で自然科学系の方に進んだんです。実家は神奈川ですけど。」
「空想して遊ぶのが好きで、テレビなんか見てても、自分だったら、こんなストーリーにするな、とか。昔子どものときの経験のように、誰かを笑わせてあげたり、喜ばせてあげたいな、とか。1対多でやれるじゃないですか。そういう仕事にあこがれてるんですね。そういう機会がどっかであればな、と思って来ました。ワークショップはまったく初めてですね。演劇活動にコミットするのもはじめてです。話題ふるのも簡単、人の話聞くのも簡単だと思うんですね。でも、予想もしなかったことを課題に出されて、こんな頭使うのかって。考えずにって言っても、考えない瞬間なんてないですよね。シンプルな課題にとても頭使いました。考えないで出すということが。名前言えとかね。頭使って、熱くなりましたね。部活やったみたいな爽快感でしたね。昨日、友人にワークショップのこと話して、これ、社会的にとても良い教育だよ、子どもにこんな機会持たせてやったらすごくいいよ、って話したんですよ。」
徳永さんと組んで、勘違いしそうな女の子を演じた古賀ななえさん。大学4年生で心理学を専攻してるらしい。
「芝居は以前少ししてたけど、しばらく休んでた。将来のことどうしようと思ってたころに、心理学勉強しながら、お芝居またやりたくなって。半年くらいですけど、ワークショップやオーディションうけたりしました。母は反対はしていない。思い切り賛成もしていません(笑)。でも、このワークショップの情報は母が持ってきてくれました。イッセーさん、実は子どものころいっしょにポスター撮影したことがあるんですよ。で、来ました。やってみて、言葉の入り道とか、私が芝居しながら、そうじゃないかな、と思ってたことが言われた。演じることの共通点があった。間違ってなかったという感じで、こういう方向で演じることができそうです。ちゃんとつかめそうで、お芝居するということがうそにつながらないんだって。」
舞台練習に入った3日目。客席に座る増田規貢子さんに聞いてみた。細身で、趣味のよいロングスカートが一日目印象的だった人。でも、暗い客席に座った彼女は不安気な表情に変わっていた。「自分のこと好き勝手しゃべっているけど、間が取れるということですよね。みなは舞台ではそれができないというけれど、でも日常ではそれがあるのが見えてくる。でも、自分は日常が違うって気付いて。涙出そうなくらい落ちこんでいます。助けてもらおうと思って、でも他力本願ですね」と、とうとう涙が落ちてきてしまった。逃げ出してしまいたいと言っていた彼女が、夜遅く、高橋正明さんと組んで、ダイエットできん、と八つ当たりする女性の役で舞台に立った。雄三さんの合格をもらい、にこにこ笑顔で帰っていった。小さいドラマは、舞台の袖でも進行している。
☆ そして初日
2時開演の本番の日、10時から稽古である。それも通し稽古っていうのじゃなくて、昨日、雄三さんに見てもらえなかった芝居をこれから新たに見てもらって、本番に出そうということ。芝居の経験がない参加者たちは、本番に出られるのは自分たちの一部の人だと思っていたはず。でも、最後になって、ごくごく自然のなりゆきで、たった3日間のワークショップでやってみたことを芝居にして舞台に乗ろうとしている。とても熱心にでも、必死にならずに。
本番は、雄三さんが芝居をみていて、もう展開がないな、とか、ここらでいいな、と思ったら、合図を送って照明を落とす。そしたら、音楽が鳴るという段取り。
通してやってみる暇も十分にはなく、リハーサルを見ている立場から言うと、なんだか、まちまちな印象。
楽屋で衣装合わせしている女性に聞いてみた。小松著子さん。この街の図書館の司書さんだそうだ。やさしそうなおじいさんの扮装。「ガラスの仮面にはまってまして(笑)。役者が監督をボイコットしてしまい、監督が街の普通の人を集めてきて、その生活をそのまま活かしてお芝居するシーンがなんか、このワークショップにぴったりだなと思って。自分は場違いな所に来てしまったなあと。好き勝手しゃべるタイプではないし、人前に出たいわけでもない。でも、お芝居つくる現場を見てみたいって思ったんです。やってみたらすごくおもしろかったです。」こんな風に肩の力の抜けた参加者たちが、作り上げる芝居。
本番で驚いた。ただ、ぐだぐだ言うのよ、と呪文のように与えられた指示を、疑いもなく、守って、それだけを武器にして、ねまき姿の無防備なしたくで、堂々と本番に値する芝居をしてみせたのだ。
冒頭は大池校長。イッセーさんの新学期挨拶。
チョマ、と猫を呼ぶばあさんに、めし食いたい、わしゃ死ぬぞ、とおらぶじいさん。イグアナが心臓発作を起こして、と一人でしゃべりまくるかあさん。美形の自分を忘れちゃったみたいに座敷にねそべり、ばあちゃんに、親指で鼻くそほじるのはおかしいか、と問いかける娘。彼氏の話をする姉に対して、平泳ぎのテストで、自分だけ髪をとめた輪ゴムがなくなっている、なんでや、と興奮する中学生。イッセーさんも途中で小泉首相になって登場。
早口の小学生をゆっくりのペースで受け止めるじいさんは、さっきインタビューした小松さん。静かでいいじいさん。作り物のじいさんじゃなくて。
暗転になっても、暗い中で、みんなせりふ言い置いていく。一つの芝居が終わったというより、「もう寝なさい」と母親が電灯を消したのに、まだ、話し続ける子どもみたいな感じ。幕間の音楽は、フルートがインプロビゼーション風に旋律をいれていく。そして、自作楽器をもってきてくれた参加者(森田知美さん)が、絶妙なタイミングで鳴り物をいれる。ベースの岡田さんの指示は最小限だけど、明るくからからとした日常を支える音楽になっていたと思う。
一人でぐちるばあさんは存在感がすごい。東北弁で、なりきるしばい。そこにイッセーさんがからむ。四つに組むという感じ。最後はまんじゅうくって、酒盛りになる。
沖縄の子どもとばあさん。パンを買いに行ってかびがはえててそれを指摘したら、店のおばちゃんが、おまえが買いにくるのがおそかったと逆に文句言われた、意味わからん。といくつもいくつも意味わからん、とじゃりんこチエみたいなお下げをふる。その小気味よい話しっぷりに会場は大盛り上がり。そして、稽古最終版での大発見だった「灯台守になりたい」というサラリーマン。
最後は、二人の娘のところへ飲んで帰ってきた父さんが、ばったり高校の同級生に会って、出世しとったと、寂しいなと思ったことを服脱ぎながら、しゃべる。
ああ、この土地ではうちに帰って、一日腹にためていたことを、ぬけぬけと言い放って、いつのまにか、気持ちも晴れて、また明日にはさらっぴんの気持ちで仕事に行くんじゃないだろうか。よく考えたら、どれもよく似た情景ばかり。でも、次々と展開していくと、目が離せなかったかった。あのリハーサルから、何の新たな指示もなく、時間経過もなく、でも、客が入って、照明が入ると、実におもしろい芝居にしあがっていた。大満足。
でも、終わってから、まだ、だめ出しと稽古が続いた。ゆとりの稽古はさらに熱っぽさをました。できるって手応えがあったからかしら。
9月11日 本番2日目
10時に会場に到着したとたんに控え室から雄三さんの姿が消えた。舞台から客席へおりていったのだ。すでに、参加者も半数以上顔をそろえている。昨日の舞台で大受けした、一番バッターのチョマ猫を呼ぶばあさん(松田光子さん)は今日は用があって来られない。しゃべりまくる小学生を静かに静かに受け止めていたおじいさん(小松著子さん)も、自毛の茶髪のまま、ゆったりのったりあちこちに出てきたばあさん(斉藤京子さん)も今日は来られない。舞台で生彩を放ち、インパクトを与えていた彼女たちはあっさりしていた。芝居が盛り上がったことは承知しているのに、でも、自分でなくても必ずなんとかなる、と100年前から続いているような他者への信頼感が感じられるなあ、なんて、客席で感動していたのは私であって、森田雄三は大変だ。そういう雄三さんの姿をみていて清子さんもきりきり緊張するかというと、ぜーんぜんそうじゃない。悠然と「ほんと、雄三チャン好きだよね」とにいっと笑うのだ。経験に裏付けられた、なおかつ根拠のない信頼感と自信。
チョマばあさんも二人目でやっと決まった。イグアナ心臓発作をしゃべりまくる寝ころんだおかあさん役だった高倉さん。昨日決まったと思った演目が、また、新たなイメージを吹き込まれていく。同じようなせりふを口にしているのに、4人の関係は昨日とはどこか変化する。おじいさんはより疎外された感じに。でもって、小学生とばあさんとはとてもしっくりいくような感じ。ドラえもん小学生を受け止めるじいさんは、岡田茂さんに変更。
そして、今日になってもまだ、新たな出演者が雄三さんの前で演じてみる。臆さず、ねばって、でもなぜか、しつこい印象がない。新たに、ジャックニクラウスのゴルフじいさんを演じた鈴木新平さんが死の床にいる設定で二つ芝居にできあがる。ここでセーフになって、最終的に舞台にあがることになった人は5人をこえた。2時から始まる本番の午前中ですよ。考えられないよね。
雄三さんは、平等にしたいからみんなを舞台にあげようとしたんではない。今回のテーマは、参加者の誰もが自分の中にしっかりイメージをもっていて、それを出せば誰もが芝居できる。そして、観客の前で演じることによって3日しか練習がとれなかったワークショップがやっと完結する。気付くこともなかった日常だからこそ、客の前で大声で演じてみて初めて、もう一度自分の中に落ち着き場所を見つけるのだ。
そろそろ客を入れる頃、やっと通してみなが舞台に立ってみて、嵐のように稽古は終わった。控え室に戻る廊下で、雄三さんはさも楽しそうに笑う。「へっへっへっ。これ、ほんとに本番楽しみだよな」もちろん、冷や冷やを背中に背負っての楽しみ方。だって、参加者は昨日と同じことをしては、もう芝居が命を失うことを知ってしまった。ところが、頭で考えて構成を変えようとするとテーマからはずれた感情過多の芝居になる。通し稽古の前半の演目は雄三さんのチェックは入ったが、後半は立ち位置の確認くらいで終わってしまった。今日、どんな芝居になるか誰も知らないのだ。当人たちも舞台に立ったら、どんなこと自分が言うのかそのときまでわからない。でも、その誰もわからないってとこが、今日の芝居に命を与えるってしくみなんだから、腹据えて楽しむしかない。
今日も、イッセー大池校長は絶好調である。客席を舞台にひきこむと同時に、無謀な芝居の試みをうまくくすぐり、出番を待つ演じ手は3日で芝居を作るって自分たちの置かれた滑稽な状況を大笑いしている。暗転してチョマばあさんとめし食いたいおら死ぬぞ、と叫ぶじいさんが現れる。芝居の連なりは動き出したのだ。延々と続くお茶の間は、見ている人を決して飽きさせなかった。演じ手は受けをねらうあざとさもなく、正直に自分の中からでてきたせりふを客席に届けていく。ああ、昨日これと同じことうちでしゃべったよな、なんて気づきながら、客は静かに惹かれていく。イッセーさんが登場すると、多少安心したような笑い声が起こる。イッセーさんの一人芝居っていつだって観客に多少の緊張を与える芝居のはず。でも、ここでは彼の登場が、和やかな安心した空気を作る。これもいい感じだな。
それにしても、一つとして昨日と同じ芝居はない。とてもうまくできあがった芝居を惜しげもなく捨てて、森田さんの教えの通り、舞台にあがって、客を前にして口をついて出てくるものにゆだねようとする真摯さは、そのまま快い緊張感として、客に伝わったように思う。大人だって、本当に素直になれるんだよな。これまで作りあげてきたペルソナを捨てて、でも結局自分ってちっともなくならない、汲んでも汲んでもいくらでも湧いてくる存在なんだ。そんなことが参加者だけでなく、見る人にきちんと共有されていったと思う。
小学生や中学生に自分の発見したいやらしいことを教えてやろうとウハウハする姉ちゃんは妹たちの学校生活の現実から発せられる発言に次第にたじたじとおされていく。こんな場面、今のテレビならば、小学生や中学生が大人顔負けの性知識で大人をびびらせる展開にしてしまうだろう。でも違ってた。子どもがしっかり生きてる毎日の学校生活のまんまの叙述はとっても強くて、お姉ちゃんは、いつの間にか聞き役になってる。テレビドラマの定型が、いかに作り上げられたものなのか、って本当に実感できる。
高齢者見合いで皆をうならせた魚住さんは、出をあきらめて引っ込んでいた田島くんと組んで甥っこのような青年と微妙な間柄を縁側で醸し出す。「漫画家になりたいんです。マンガとかまだ描いてないけど」ぽろっと青年からこぼれた言葉はとても今風。
灯台守になりたいと、帰宅した直後の背広姿で言い出す柴口さん。荒れた波をかぶる岬の断崖に立つ灯台っと、全然ロマンチックでない語調でしっかり言うからとってもよく届く。それに対して、夢見るような奥さん、岡田清美さんの「家がほしい」というせりふは優しく身体をくねらせていかにもロマンチックに語られる。
坂道発進とデートの服装を、じいちゃんに話し続ける姉妹。じいちゃんはゴルフクラブを振る格好。虚空に消えた架空のボールの行方をおい、ジャックニクラウスとのたまう。そんなじいちゃんを取り合うかのように、姉妹は一人語りをやめない。現代のおとぎ話じゃないかしら。
沖縄の子ども(新垣裕美子さん)は、絶好調。昨日とは、ばあちゃんが違っているけれど、そんなことはおかまいなし。受けたばあちゃんは、イッセーさんと四つに組んだ東北のばあちゃん(宮里里見さん)。沖縄の子どもをしっかり受ける芝居はすばらしかった。
昨日よりもパワーアップした飲んで帰って娘二人の前でズボン脱いでいやがられる父さん(久保進さん)。テニスのコーチになって、ウインブルドンで選手を優勝させて、そのとき病気で倒れて死ぬって、そういう人生が夢だったって。しかも最後は一人スポットライトを浴びて熱唱。それがまた、うまいの。同級生に負けたなって表情も娘にいやがられる存在感も、全部軽いんだけど、なんか、この人生きてるよなあ、って伝わってきて、腹よじれるぐらいおもしろくて、会場は一つになって大爆笑。最後は、ちょっと涙ぐんじゃった。おかしかったからかどうか、よくわからない。
芝居が終わり、ロビーはすごい人でごったがえした。ここばかりは東銀座歌舞伎座のロビーだって比肩できるくらい。もちろん、演じ手やワークショップ参加者、その家族友人が大笑いしながらいくつも小さなサークルを作っていたんだ。そんな光景を見渡しても、演じ手と家族友人の区別が一見してわからない。メークもなし、衣装も普段着っていうんだから、当然かもしれないけれど。芝居やるときに、一種のオーラというか、そういう特別なきらら感ってなかったんだな、と改めて気付く。日常を日常のまま外に出して、もう一度自分にしまい込んだワークショップの参加者たち。
そして、ワークショップの掉尾を飾るのは、打ち上げを兼ねた交流会でした。雄三さんの挨拶もちょっと感動的だった。紹介しておこう。
「ここまで何にもドラマが起こらない、劇的要素がない、キャラクターが確定していない、ただ、どてどてしているだけであるって芝居。頭のすみっこでは一生のうち一回くらいやってみたいなとは思ってた。西洋の前衛劇とか好きで、不条理劇、ベケットとか読んでて、もしかしたら不条理ってものは日常の中に根ざしているものじゃないか、っていう直観はあったんだけど。でも、不条理劇ってなんかしゃれたもので、理屈のわかった人だけが集まって観るものであると迷信のように思いこんでいたかもしれない。非常に不思議な、会話が成立してなくて、ドラマがなんにも起きなくて、でも、そこに価値があるんだってことをこんなふうに試せるとは思ってもみなかった。お客さんもずっと迷って観ててくれて、でも基本的にこの土地の人って好意的だから、何が起こるのかなってずっと観てくれて、最後に久保さんがだじゃれを言う、ズボンを脱ごうとする、それだけであんなに笑ってくれる。ずっと続いてたシーンの連続がこういうことを見せようとしてたんだってわかってくれて、で、家庭の中に人が帰ってくるってことが、なんて、楽しくて滑稽で幸せなことだってそう思ってくれたんだと思う。なんでこんな芝居ができたんだろう、って、まあ。みんなの力に決まってるんだけど、台風の力もあるけど(笑)。これだけ芝居やっててもめったにないことだから、みなさんも誇っていいんじゃないかと思います。なんて言うのかな、結晶じゃなくて、湯気のようなものだったかな。とにかく、いいものができました。すばらしかったと思います。」
ここではじめて自己紹介の形でどんな日常を送っている人なのかが語られる。あっちとこっちの芝居に出てて、実は家族だったってことがあかされたり、演劇歴30年のベテランだったり、テレビのフリーディレクターだったり。意外だったり、やっぱりだったり。出し物ごとの挨拶はいつまでも続く。とうとう3時間の交流会になった。しかも、その輪はいつまでも崩れないで、その中心に雄三さんとイッセーさんが居続けることとなった。
翌朝、起き抜けの雄三さんに、改めてインタビューしてみた。
☆森田雄三 インタビュー 9月12日朝
今度の一連の企画のすごいところは、4日とか5日とかって時間ってこと。
昭和50年代に安部公房が書いてたことだけれど、戦争終わってテレビや雑誌でアメリカの生活見てさ、車とか、掃除機とか、冷蔵庫とか、こういうものがある生活はパラダイスだと思ったわけよ。で、がんばって30年たって、そういうの全部そろった生活をみんなが手に入れたら、そういう生活はだれもパラダイスだとは思えなかったのね。でも、雑誌みてあこがれた翌日に手に入ってたらパラダイスを実感できたはずなんだな。だから、30年かけたら夢の実現にはなれなくて、翌日だったらパラダイス。つまり、今度のワークショップも4日や5日で芝居をやってしまえるって時間の短さがテーマなんだ。努力とか地道とかって幸せにならない方法だと思うのね。幸せの実感ってのは、時間との関係だと思うんだ。
参加者に時間の概念ってのを与えてね、3日や4日でできたと思うと幸せになる、幸せを実感できると思うんだ。
イッセー尾形で実現してきたわけだから、4日や5日でも森田雄三やイッセー尾形なら、なんとかするだろうって、ある程度世間も信頼してると思うんだ。でも、そうすると、4日や5日でお金払ってくれる客に見てもらえるものを作るのならば、選抜ってことが入ってくると予想するわけ。みんなね。参加者も含めて。だれかが宝くじみたいに選ばれて、素人だけどおもしろい芝居するって風にね。そうすると、やっぱり才能の問題なんだ、ってことに帰してしまう。
でも、そうじゃなくて、時間の短さを味方につけても、選抜に行かずに数の問題をこなそうというわけ。つまり、できるだけたくさん舞台に乗っけちゃおうってこと。今回は、最後までやってみた人はほぼみんな舞台に乗ったよね。選抜じゃなくて、提示したことを感覚と身体でわかったなら、全員舞台に乗ってもらったわけ。
「イッセー尾形・ら」は、これまでの考え方から、いい人だけを選ぼうとか、芝居の経験を活かそうとかは思わない訳じゃない。でも、間に入る人や機関は、いい人が参加者に選ばれたらいいな、とか、参加者を絞って行こうとか、参加者のうち何人を舞台にあげるかってことに関心を持つんだけど、そこで、俺なんかは数の問題の常識、つまり、参加者を絞るとか、選んで数名だけを舞台にあげるとか、そういう常識を崩していくんだ。でも、選抜って意識をみながもつことは方法論としては重要なわけ。参加者の中には、4日で舞台にでられるっていうんだから、きっと選抜されるんだろうって意識が高まっていくわけね。
参加者だって、選ばれる基準って芸術的感性とか内面的豊かさとか、そういうことだと信じてるわけ。だから、自分にそういう面での自負があるとこっちの言うこと理解しないで、自分のアピールばかりになったりするんだな。
そうじゃなくて、自己を相対化するというひっくりかえりができるかどうかなんだけどな。
追い込んで、真っ白になってあわわになって言えなくなってからなんだな。内的とか内面とか自己イメージとかそういうことから一旦出なさいよってことなんだ。でも、当然これこわいよね。反発するよね。
灯台守の話した人もそう、あの人がどう考えてるか、とかこういう芝居を見せたいっていうんじゃなくて、ふと口から出た 灯台守って言葉自体がおもしろいじゃない。最後にテニスのコーチになりたかったっていうお父さんだって、舞台で受けねらってやるわけでもないのに、ズボン脱ごうとしただけで、すごいおもしろかったでしょ。意識せずに家でやってることを舞台で再現してみたら、こんなにおもしろいんだ。
オフィシャルな社会に生きてる自分と家庭で生活してる自分ってあるよね、自己イメージって、大体が家の外での自分じゃない。ということは家庭内でやってることや言ってることってのは、実は本人にとって自己イメージ以外の自分なわけ、で自己イメージ以外の自分で生活もしてるわけ。思春期すぎると、自己ってものを統一して行こうとするじゃない。ってことはオフィシャルな自分を作るために、消していく自分ってのがあるわけね。自己形成の過程から消し去ったものから自己をみるってのが今回のテーマだったかな。
意識したら出てこない自分をあわわと思い出すか、思い出せないか、そこに参加者がひっかかっていった訳ね。
もっと言うと、自己イメージを統一するために捨てちゃったものがどれだけ大事かってこと。表の自己が崩れるってことはあるじゃない。試験に失敗したり、リストラされたり、失恋したりとかさ。でも、そういうときに自己を下支えするものが捨ててきたものであるんじゃないかな。自己イメージを何度も捨てて作り直した人はそういうこととてもよくわかるんじゃないかな。
ワークショップの方法は、ゴールがあって、これこれって俺が最初から思っているわけじゃない。でも、直感的にひらめいて作り上げていくってのも違うと思うな。ライブっていうか、集団といっしょにいて、そこでなんか出たときに、みんながああ、って場が反応することがあるんだよね、そういうの探りながら、この集団とか、この地域のもつ関係性っていうのかな、そういうのが出るってのをみつけていくってのが一つの方法論でもあるな。それで、今回は家庭内のなんでもないこと、お互いに真剣に聞こうともしないから、安心してしゃべってみるいろんなことをやってみたらどうかな、って思ったんだ。
でも、これはむずかしいよ。
だって、つまんないことなわけじゃない。お互いにあんまり真剣にコミットすることもなく聞き流しているようなことをせりふにして、どこかで許容しあってる関係性が浮かび上がるって、全然劇的じゃないわけでしょ。実験としてもおもしろいことやっちゃったなと思う。これは何度もうまくいくテーマじゃないけど、今回はうまく行ったな。やっぱり、この土地柄っていうか、家族に対しての根っこでの信頼感がしっかりあって、つまんないこと言う自分を家の中で出したって大丈夫って、そういう家族の結びつきがしっかりあるんだろうな。
で、延々とよく似た設定の話を繰り返し繰り返し演じていくうちに、観客の中に、そういう家庭って場がしっかり喚起されてくるんだろうね、だから、何がおもしろいんだろうって、よくわかんないけど、目が離せなくて、その繰り返しを重ねていくと、最後にうわあーって盛り上がってきたんじゃないかな。
なるほど、青年期の発達課題、アイデンティティの形成、なんて言うけれど。雄三さんの言うように、私たちは社会に受け入れられようとして、自分の一部を捨て去ることが成長だと勘違いすることがある。若いときは、ただもう、この家庭から出て行ければ、自分が形成されて、自立できると信じていたこともあったっけ。育ってきた環境、自分を無条件で受け入れてくれる場所、人に知られたくないけど懐かしい父母や祖父母の生活習慣、そんなものがずっと自分を作ってきたのに、大人になることはそんなものを捨て去ることだと社会から思わせられている。とても具体的に言えば、言葉だ。標準語で話すことが、社会的な立場をうまく作ることのように思われるが、それによって、私たちは、その土地の言葉で考えたり感じたりすること放棄する。今度の芝居では、振り払って大人になろうとしたものを自分で演じてみて、再度取り込むという試みをしたのだ。その結果、不条理と呼ばれる芝居に、実は人の血の通った暖かさを発見したということだろうか。
私はというと、5日間のワークショップを、大人が変わるための装置だな、と思ってみていた。子どもは日々変容する、発達する。思春期なんて反抗することすら、調和的な出来事として受け止められたりもする。でも、大人になったら、ずっと毎日を継続させていかなければいけない。そこでは人格の一貫性が大切なことであって、あるとき急に人が変わったようになる、なんてことは許されない。そこに息苦しさを覚えない人は少ないと思う。
そんな息苦しさから抜け出すために、場合によっては、日の当たるときの自分と影の自分を使い分けるって生き方を選ぶ人もあるだろう。でも、そんな器用な生き方はできなかったり、そんな生き方で親しい人を傷つけることに耐えられない人の方が多い。このワークショップの参加者は、自分のあり方をもう一度見つめようとして参加したのだと思う。いろいろな言葉で言われたけど、結局そういうことだと思う。
そして、たぶん、自分がそのままでいい、ということをしっかり受け止めていったんじゃないかしら。変容するというのは、実はそういうことだと思う。排除しようとしたり、無意識であったりする自己の一部、それを再取り込みするということ。それによって、自己イメージはもっと豊かに厚みをましたものに変化していく。技能がアップしたわけでもなく、前より美しくなったわけでもない。ただ、自分の一部分を取り戻すという作業。
唐突だけれど、村上春樹のテーマだって、そういうことだ。
自分が変わるということが外的な行動や見え方の変化を目指すのは、かえって遠回りになりかねない。なぜなら、すてきなモデルというのは、到達しても到達しても、もっとずっと遠くにすてきなイメージがあり続ける。バリエーションもある。私たちは、いつまでたっても自分というものの欠落感に悩まされることになる。それよりも、今持っていて気づかないでいる部分を取り戻す作業は、地味だけれど自分が拠って立つ所を確かにしていく。今度のワークショップで参加者は、舞台にあがり、大声で自分の日常を語ってみせることで、排除しようとしていた生活の手触りや温かさをしっかり取り戻したのではないかしら。取り戻した日常からは、実はもっと遠くへ飛躍できるようになると思う。
(終わり)