2007年2月 ベルリン公演から

 

 今年の元旦にエストニアのタリンを出発してベルリン到着。「ウンター・デン・リンデン(菩提樹の下)」という並木道にあるマキシム・ゴーリキー劇場に向かう。その劇場は一八二三年からずっと美しいたたずまいを保っているのだそうだ。

 威厳のあるクリーム色の外観は、豪華という一言では足らない懐の深さだ。階段に張られたじゅうたんを踏みながら客席へと進むうち、日常のさまざまな思いや音を含んだ上着を脱いでいくような、軽やかさを覚える。客席はキュッと締まって、とても四百席もあるようには感じない。

 一年のうちのたった二日の貴重な休みに、よく知らぬ日本人の一人芝居公演のために劇場を開けてくれたのには、それなりの事情があったようだ。この劇場には、旧東ドイツ時代から百人以上のスタッフと俳優が所属してきたが、照明、音響、舞台製作、衣裳の方々が、ほんの数ヶ月前に、国の管理から有限会社になって激変した環境を、受け入れようとしていた。

 それ以前、百八十年もの年月は国の補助で成り立ってきたが、突然、一日一日の売り上げが、劇場の存続を左右するのだということに、スタッフ一人一人が目覚めたのではないだろうか。東西ドイツ統合の現実を、ふと感じてしまった。

 「チケット代は十六ユーロ(二千数百円)と決めています」。若き芸術監督は誇らしげに語る。

 公演初日のリハーサルが終わると、それまで沈黙を通していたスタッフがこちらの目をみつめ、大きくうなずいて、切れ間なく長く話す。通訳してもらって、ようやく分かる。

 「衣裳はアイロンをかけ直す」と言いに来た六十代のオリンカさんは「日本人の労働者をあなたは表現しているのネ。私たちのように、その働きは大変です。好きよ」。

 公演本番、場内にスピーカーから流れる同時通訳がかき消されてしまうほど笑い声に満ちた。

 英語教師のネタでは「世界に出たら(英語が)必要になるんだぞっ」という、今回新たに加えたセリフで爆笑が起きた。そのわけは後で知った。

 旧東ドイツでは、ロシア語が仕事の上では主要な言葉だったのだ。「三十年、ロシア語で仕事してきて、今から英語を話せって言われてもなぁ…」。音響のヘンリックさんは、首を横に振るばかり。これからは英語も学ばなければ、と渋々決心しているようだった。

 悪いことしたかな。

(共同通信社 2007年2月配信)