大道珠貴「オニが来た」

 

 「いっとき、自由に生活したいんだ」と言って、五十を前にした夫は会社を辞め、ダイエット村という何だかわからないところに勝手に行ってしまう。取り残された妻は、夫の実家で暮らすことになる。

 四十代、元・湘南のヤンキーだった人妻が綴る、だんなの家族との同居日記を装った小説だ。

 そこには、町医者をリタイヤした義父に、お嬢さん育ちの義母、先代から家を取り仕切っているお手伝いさんに、引きこもり気味の義弟、さらに同じ町内には独身の義姉が住んでいる。といった、いかにも一筋縄ではいかなそうな家族構成をとる。

 こんな設定を聞けば、まずストレスが溜まりそうな生活が思い浮かぶ。生活習慣の違いからくる気づかいや、ささいな行き違い、そこから起こるトラブルのあれこれ……。

 しかし、どんな想像も覆される。

 義父が白菜を喉につまらせたとか、義弟の結婚のために荷物を運んだとか、老人たちと新幹線で温泉に出かけたというエピソードのほか、飼っていた老犬(主人公は、どこにでもいそうだからと、ひそかに「ザッシュ」と命名する)が死んだり、夫から離婚届が郵送されるという突発的な出来事はあるものの、それ相応に驚き、過不足なく悲しむ姿が描かれるだけだ。

 小説は「心(心理)」を描く媒体、自然にそう思い込まされてきた根本に、疑問を抱かせる作品だ。そもそも心とは何なのか。漱石の『こころ』を持ち出すまでもなく、まず思いつくのは「秘密」とか「告白」だ。

 周囲の人との間に、ひび割れがあってこその「心」である。もっというと「外界とのズレ」が心をつくりだすといってもいい。そして、心を豊かに持つ(外との違和感を意識する)ことが、感受性がすぐれた魅力的な人物として、物語の主役を務める条件にもなる。

 逆にいうと、小説の登場人物たちは、些細なことにおびえ、過剰反応を繰り返していく。若い頃は、肉体労働が長かった僕は、ナイーブな主人公に出会うたび、「おいおい、そんなに悩むなよ」と言いたくなるのも、しばしばだった。

 本書の主人公は、恋愛に縁のなかった四十女。義父は暇を持て余し、義母は持病を抱え、老家政婦は口が達者なだけという具合。いずれも、これまでの小説ならば脇役でしかなかった人たちだ。つまり、あまりに当たり前過ぎて、普通の作家たちが、気にもとめてこなかった小宇宙がこの小説のすべてである。

 しかし、当たり前過ぎる日常を、物語として再構築するとなると、至難なことだ。

 〈この書きものは、だんなさんが帰って来たら見せようかな、と、ふと思って書きはじめた〉

 作者は冒頭、この小説は妻が夫に向けたもので、読書を限定したものだと表明している。それがかえって、読者の興味を一点に集約させる。肩寄せ合うようにして暮らす老人たちの死であり、それを主人公はどのように見守るのか。

 「ザッシュ」と名づけた犬が老衰していく場面を作者は、こう綴る。

 〈歩けないのに、脚は歩きたいらしく、横たわったままの恰好で、動く。空中歩行だ。もがくように動いてる〉

 〈大きく息を吸い込み、あばらが浮き、そしてもう息は吐かないまま、逝ってしまった〉

 「死」を即物的に描いている。

 そして題名の「オニ」の規定だ。

 〈たまに私のなかにオニを発見したり、する。(中略)私のだんなさんとの性交場面を思い出し、「信じられねえ」と、これまた吐き気〉

 通常の小説で扱う「愛の営み」や「心の葛藤」を「吐き気」と片付けている。「死」を受け入れる為には「心」は「吐き気」と同列になってしまうのだ。

 「死」の視点からすれば、何事も起こらぬ日々こそ至福の時間なのだと再確認させてくれる。」

(朝日新聞社「週刊朝日」(2007年4月27日号)掲載)